Heal with Rife ライフ周波数療法 総合ブログ

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「日本人にコメを食わせるな。パンを食わせろ」。戦後アメリカはパンと牛乳で日本人を支配しようとした?日本人のパン食は「小麦買わせるアメリカの陰謀」。

「日本人にコメを食わせるな。パンを食わせろ」。

GHQによる戦後の対日小麦戦略。

漢字にすら表れている。


べいこく
米国


アメリカが米の国!?
コメ食ってないのに!?


パンの国アメリカなのに、米の国に。
逆だろ。

日本が米の国だろ!!!!!

アメリカはパン国とか小麦国とかじゃないか?


日本人はもともとお米を食べてたのに、
GHQが来て給食をはじめ、
そこにパンを導入した。

これが日本人が米を食わなくなり、
食料自給率を下げた原因である。

「日本が『パン化』した。
これはアメリカの小麦粉を消費させようというアメリカの陰謀です!」。
https://www.j-cast.com/tv/2011/03/02089398.html?p=all


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日本のパン食は戦国時代にキリスト教の宣教師が持ち込んだのが最初とされています。
そして「パン」はポルトガル語なんです。

日本はその後鎖国し、
オランダ以外の西洋諸国との関係を断ちますが、
おもしろいことに「パン」という発音はオランダ語の「ブロート」にならず、
「パン」のまま。

明治になっても太平洋戦争後になっても英語の「ブレット」にならず「パン」のままでした。

きっと発音しやすく覚えやすかったんでしょうね。
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https://omosiro-column.com/archives/5453


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対日小麦戦略「日本人にコメを食わせるな」

「日本人にコメを食わせるな。パンを食わせろ」という巧妙露骨な”対日小麦戦略“が展開された。

いわく
「日本はコメを食ったから負けた」
「コメ食ったらバカになる」
「コメは脚気のもと」…などなど。

この宣伝工作には金で買われた日本の御用学者が利用された。
文字通りの誤用学者だ。

そして「パンはアミノ酸を運ぶ」「高栄養で頭がよくなる」などとパン食が礼讃された。

まず狙われたのが学校給食。
子供たちに一日一回パンを食べさせれば、
この子らは20年後もパンを食べるだろう。

アメリカが展開したのが「食生活改善普及運動」である。
日本中をキッチンカーが走り回り「粉食を食べましょう」とキャンペーンをやった。

かれらの思惑、長期戦略は、みごとに成功した。

いまや米作農家ですら「朝はパン」というところのなんと多いことか。
皆がパンを食えば、コメは減反。食糧自給率は落ちる。

「食で自立させない」ー—まさに、アメリカの思惑どおり。

パンには味噌汁ではなくシチューが合う。
牛乳もうまい。サバの味噌煮、トンデモ…。
アジの開き…など、ステーキなど肉が食いたくなる。

白菜の漬物ではなく、野菜サラダ。
塗るのは江戸むらさきではなくバター。
食後は番茶でなくコーヒーが最高!

不思議と紅茶も合う。
つまり、日本人をパンで餌づけすると、
肉、牛乳、コーヒー、紅茶などを引っ張ってくる。

これらは、ほんらい日本では生産不能

海外の各々メジャー(巨大資本)が市場を抑えている。
つまり、
日本人が各種食品・飲料メジャーの支配下に下ることを意味する。

軍事的に占領されるということは文化的に占領される、
ということだ。

それは市場を占領される。
つまり経済的な支配を意味する。
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http://min-voice.com/american-occupation-policy-4613.html


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アメリカの小麦マフィアの戦略と面白く書く無責任者が現れた」
「当時の首相、吉田茂氏は、
声をあげて米を食べられては困る。

(パンとミルクの、筆者注)学校給食は続けようと言ったエピソードがあった」と延べ、
当時の食糧事情で小麦消費がやむなく増加したのだと述べている。
確かに当時はそうであった。

問題は食糧事情が好転してからもご飯と味噌汁ではなく、
パンとミルクの給食が今日まで続けられ、
小麦の9割以上を輸入に頼って戦後の食生活を根底からおかしくしたことに対する反省が全くない点だ。
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https://blog.goo.ne.jp/syokujikyouiku/e/ae9a40d024cc7bae388d40bfdd225d1e


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余った小麦

第2次世界大戦後のアメリカでは、
国内に大量の穀物が余り、
深刻な食料余りが起りました。

戦争中は兵士の食料として穀物が大量に作られ、
海外の前線に送られていましたが、
戦争が終わると作りすぎた穀物の行き場がなくなったのでした。

アメリカ政府は1954年に「余剰農産物処理法」を制定しました。
目的は、アメリカ国内で処理しきれなくなった大量の農産物を処理するため、
そしてアメリカの農産物の輸入市場を拡大するためでした。

これにより、
穀物は戦後のヨーロッパやアジアの飢餓解消という名目で海外に売り払われていきました。

穀物の代金は長期の低金利ローンで時間をかけて返して良いという好条件でした。
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https://note.com/argumented_world/n/n11678c036826


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給食が作った日本のパン文化…アメリカの小麦が食生活を変えた

「1956年、アメリカの余剰農産物に対する日米協定が結ばれ、
アメリカは日本に小麦10万トンと、
学校給食用の小麦を定期的に送るようになります。

日本は給食でアメリカ産の小麦を使ったパンを出し続け、
子供たちの食事を確保しました。

実は、
大戦後のアメリカには農作物が大量に余っていて、
日本が新しい市場と目された面もあります。

実際に、
1976年まで給食の主食は基本パンのみで、
コメは意識的に排除されました。

1970年代、
国が減反政策をおこなうほどコメが余ったことをきっかけに、
ようやく給食にコメが登場するようになったのです」

パン食が当たり前になるにつれ、
国内のコメの消費量はどんどん下がっていった。

食料需給表によると、
1962年度の118.3kgをピークに減少し、2019年度には53kgまで落ちている。

パン食が当たり前になるにつれ、
国内のコメの消費量はどんどん下がっていった。

食料需給表によると、
1962年度の118.3kgをピークに減少し、
2019年度には53kgまで落ちている。
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https://smart-flash.jp/sociopolitics/153958/1/1/